『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』阿部公房

今この本を読んでいるのだが、、、、、

 

『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』阿部公房

 

驚くべき分析力で時代の最先端を行く、阿部公房という天才に圧倒されている。

以下はその、分析の天才故のエピソード。

 

ぼくも昔は陸上競技の選手だったことがあるし、とくに運動神経が鈍いはずはないのだが、水の中ではさっぱりだ。コーチの指示どおりにしても、泳ぐどころか、すぐにプールの底にはりついてしまう。自分では比重のせいだろうと得心しているが、コーチからは泳ぐ動作を分析しすぎるせいだと批判された。たしかに分析癖の過剰は否定できない。たとえば人並み以上に数学が好きだし、得意でもある。だがその分析癖のおがげで、皮肉にも、分析が作家の仕事にとってむしろ有害だという分析結果に辿り着いてしまったのだ。以来、プールでの努力は断念したが、作家としてはなるべき分析をやめてイメージに身をまかせ、言葉のなかを泳ぐように書こうと努めている。

 

この本、1980年代に語られたインタビューやエッセイ、日記なとをまとめたものなんですけど、安部公房さん、まるで鞭のような人ですね。

その分析に基づいた思考は、私たち現代人への鞭です。

 

ちなみに今年は安部公房生誕100年を迎え、新潮文庫から三作品が復刊。

■『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』

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■『飛ぶ男』

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■『(霊媒の話より)題未定 阿部公房短編集』

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そしてさらに10月12日(土)~12月8日(日)まで、県立神奈川近代文学館では「阿部公房展ー21世紀文学の基軸」が開催される。

待ち遠しくて仕方がない。

 

何故書くのか・・・・・

この質問はたぶん倫理的なもので、論理的なものではないはずだ。論理的には質問自体が答えをふくんだ、メビウスの輪である。作家にとって創作は生の一形式であり、単なる選択された結果ではありえない。「なぜ」という問いが「生」の構造の一部であり、生きる理由に解答がありえないように、書く行為にも理由などあるはずがない。

しかし倫理的にはいささかノスタルジーを刺激する質問である。こういう質問が可能な(解答の当否は別にして)希望にあふれた時代があったことは否定できない。だが積載量過剰のトラックのような時代をくぐりぬけて、作者は失望し、かつ謙虚になった。死の舞踏でも、下手に踊るよりは上手に踊ったほうがせめてもの慰めである。

夢のなかで幻の越境者が夢を見る・・・・・・